3月1日、マーシャル諸島の首都マジュロ。「核被害者追悼記念日」の式典に、高知市の下本節子さん(73)の姿があった。初めての海外旅行。日本から訪れている人たちの後ろに付いて会場にたどり着くと、きょろきょろと周りを見回しながら、席に座った。
式典後、ヒルダ・ハイネ大統領主催の昼食会に招待されていた。式典の最中も、昼食会場に着いても、ぎりぎりまで原稿を確認し、修正を続けたスピーチを読み上げた。
「被害を与えた国は責任を取り、被害者を救済するべきです。黙っていると、なかったことにされてしまいます」
22年前、胆管がんのため78歳で亡くなった父の大黒藤兵衛さんを思いながら話した。
1954年に米国がビキニ環礁で行った水爆実験では、第五福竜丸以外にも多数の日本の漁船・貨物船の乗組員が「死の灰」と呼ばれる放射性降下物を浴びた。船体や魚から放射線が検出され、この年、日本の港では、延べ992隻の漁船が放射線の検出されたマグロを廃棄した。
父も、被害を受けた一人だった。
下本さんにとって、そんな事実が「自分ごと」になったのは、父が亡くなって2年後の2004年だった。高知市で開かれたビキニ事件に関する展示会場で、元船員や遺族に連絡を呼びかける貼り紙を見たことがきっかけだった。
「父は無口で、ビキニ事件についてひと言も語らなかった」
だが、被曝(ひばく)した人…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル